大鏡の現代語訳・品詞分解<雲林院の菩提講・弓争ひ・花山院の出家>

 

 

たま吉
「大鏡」の現代語訳と品詞分解についてニャー

 

と思っている高校生のみなさん!

今回は「大鏡の現代語訳・品詞分解<雲林院の菩提講・弓争ひ・花山院の出家>」についてみていきますよ。

 

 

大鏡の品詞分解・現代語訳

 

 

✓内容

「大鏡の現代語訳や品詞分解」について知りたい高校生や浪人生向けの記事です。

 

✓対象となる人

「大鏡」が古文の定期テスト範囲になる高校生

 

✓記事を書いた人 

西井佑一(にしいゆういち) 愛知県豊橋市の個別指導塾で10年以上指導してきた教室長

 

 

 

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「大鏡」の内容は?

【動画】「とよはし練成塾」塾長が話す!定期テスト古文のおすすめ勉強法は?

 

 

たま吉
大鏡とはどんな内容なのかにゃー?
モモ先生
藤原道長のすぐれた人物像と、藤原道長の実績についてが中心に書かれていますよ。

 

 

ア「大鏡」の内容は?

→平安時代の180年間の歴史について書かれている本

 

大鏡とは、作者不詳の歴史物語で平安時代にできた作品です。

文徳天皇から後一条天皇の14代、約180年間の歴史を語っています。

190歳ほどの大宅世継と180歳ほどの夏山繁樹という老人が登場し、対話形式で話が進んできます。(大鏡は紀伝体という個人の伝記を連ねて歴史を記述する書き方で書かれています。)

藤原道長のすぐれた人物像と、藤原道長の実績についてが中心に書かれています。

 

たま吉
現実ではありえないほどの長生きした人達が語り合うんだニャー

 

 

イ 藤原道長はどんな人物?

→摂関政治の絶頂期を築き上げた人物

 

次に「大鏡」に出てくる中心人物である、藤原道長がどんな人物かについてみていきます。

藤原道長は関白藤原兼家の五男として生まれました。

兄たちが次々と病死したため、やがて道長に権力が集中します。

また、兄道隆の息子である伊周との権力争いに勝ち、左大臣の位を手に入れます。

その後は娘たちを次々に天皇の后にし、絶頂期を迎えます。

しかし、糖尿病と思われる病気にかかり政界を引退。

その後は出家して法成寺を建立し病気の療養に努めました。

 

モモ先生
大鏡は平安時代の政治について赤裸々に話している物語ですよ。

 

 

「大鏡」のあらすじ・原文・品詞分解・現代語訳は?

 

 

たま吉
「大鏡」の文章の現代語訳や品詞分解を知りたいニャー
モモ先生
ここでは「大鏡」の主な文章の現代語訳や品詞分解を紹介しているサイトを紹介しますよ。

 

 

ここでは高校の古文の教科書によく出てくる「大鏡」の作品のあらすじ・原文・品詞分解・現代語訳についてみていきます。(教科書ガイドには品詞分解・現代語訳・あらすじなどが詳しく書かれていますのでこちらもおすすめです。)

 

 


*教科書は高校によって違いますので、今学校で使っている教科書のガイドを買うようにしてください。 

 

 

なお、古文の定期テストで高得点を取るには、

・古文単語を覚える
・古典文法をマスターする
・下で紹介する解説サイトや教科書ガイドなどで話のあらすじをつかむ

といったことをしていくことが必要になってきます。

 

モモ先生
古文単語や古典文法などの知識をしっかりと固めるようにしましょう。

 

 

ア「大鏡」の現代語訳・品詞分解①(雲林院の菩提講)

→2人の翁がバッタリ会うところから物語は始まる

 

大鏡は雨林院の菩提講(お寺の集会)で2人の翁がバッタリ会うところから話が始まります。

その中の一人(大宅世継)は、「今から藤原氏の隆盛について話したい。」と言います。

またもう一人の翁(夏山繁樹)は、「私は十代の半ばごろに藤原忠平様に仕えた人間です。」と言います。

ここで驚くべきことは、彼らは二人ともなんと200歳近く生きていることです。

そのため、彼らははるか昔に朝廷で起こった出来事についてスラスラと話し出したのです。

 

「雲林院の菩提講」の品詞分解・現代語訳「雲林院の菩提講」のYouTube解説動画

 

たま吉
2人の翁はかなりの高齢なんだニャー

 

 

イ「大鏡」の現代語訳・品詞分解②(花山天皇の出家)

→道兼が花山天皇を出家するように促す

 

花山天皇は円融天皇の次の天皇として17歳で天皇に即位します。

しかし、そのわずか2年後に天皇は出家してしまいました。

それは家来であった藤原道兼(道長の兄)が天皇をだましたのが原因です。

道兼は、「天皇が出家したら私も出家していつまでも仕えます」と言っていたにもかかわらず、いざ天皇が出家すると、「やっぱり辞めた」と言って逃げようとします。

そこで初めて天皇はこれが嘘であったことに気づいたのでした。

 

「花山天皇の出家」の品詞分解・現代語訳「花山天皇の出家」のYouTube解説動画

 

モモ先生
大鏡では道兼は徹底的に悪役扱いをしていますよ。

 

 

 

 

ウ「大鏡」の現代語訳・品詞分解③(道長の左遷)

→菅原道真は権力闘争に敗れ、九州に左遷させられた

 

「大鏡」では藤原道長がどうやって権力を手に入れたのかについて、その経緯が詳しく書かれています。

ただ、その本題に入る前に平安時代に朝廷であった出来事について詳しく書かれています。

その一つが菅原道真についてです。

道真は醍醐天皇のときに右大臣として幼い天皇を支えていきました。

しかし、当時左大臣であった藤原時平は道真をよくは思っていなく、どうにかして蹴落としたいと考えていました。

そこで醍醐天皇に讒言し、その結果道真へ九州の大宰府に左遷させられることになったのです。

大宰府についてからは謹慎の身であるので何もすることができません。

そのため、失意のうちに道真は亡くなってしまったのです。

 

「道真の左遷」の品詞分解・現代語訳「道真の左遷」のYouTube解説動画

 

たま吉
道真は遣唐使の廃止を提言した人物で有名だニャー

 

 

エ「大鏡」の現代語訳・品詞分解④(時平と道真)

→道真は雷神となって時平に復讐しようとした

 

道真が大宰府で死んだ後、その御霊が京都に戻ってきました。

また朝廷では時平が絶対的な権力を握っていきます。

ある日、平安京では激しい雷雨に見舞われます。

時平はその雷は道真が変わり果てた姿だと思い、大声で𠮟りつけます。

すると雷はおさまっていきました。

ただ、これは時平に力があったのではなく、天皇の御威光があったからこそ道真が朝廷に危害を加えるのを辞めたのにすぎませんでした。

 

「時平と道真」の品詞分解・現代語訳「時平と道真」のYouTube解説動画

 

モモ先生
時平は政治能力には長けていた人物でした。

 

 

 

 

オ「大鏡」の現代語訳・品詞分解⑤(三船の才)

→藤原公任は和歌でその実力を遺憾なく発揮した

 

ある時、藤原道長が大井河で船遊びをしていたときに、船を漢詩の船、音楽の船、和歌の船に分けてそれぞれその分野に精通している人を乗せていました。

ちょうどその時に藤原公任が参上したため、道長は「あなたはどの船に乗るのか?」と聞きます。

公任は「和歌の船に乗りましょう」と言って、そこで優れた和歌を詠みます。

ただ、公任は「漢詩の船に乗って今詠んだくらいの歌を歌えばよかったなあ」と後悔しました。

このことから公任はどの道にも優れた人であったことが分かります。

 

「三船の才」の品詞分解・現代語訳「三船の才」のYouTube解説動画

 

たま吉
公任は「和漢朗詠集」の選者として有名だニャー

 

 

カ「大鏡」の現代語訳・品詞分解⑥(道長の豪胆・肝試し)

→兄二人に比べ道長は物おじしない性格であった

 

花山院が天皇であったころ、夜に人々を集め楽器の演奏などを楽しみます。

そんな中、天皇は「今日はひどく気味が悪い夜だ。誰か人気のない暗い所に行ける者はいるか?」と言います。

周りが「出かけるのは無理です」という中、道長は「どこにでも行けますよ。」と言います。

それを聞いた天皇は、「なら道隆・道兼・道長の三人で暗い中行ってこい」と言います。(道隆・道兼は道長の兄)

兄二人は途中で怖がって帰ってきてしまいますが、道長だけは目的地まで平然とした態度で戻ってきたのです。

 

「道長の豪胆(肝試し)」の品詞分解・現代語訳「道長の豪胆(肝試し)」のYouTube解説動画

 

モモ先生
大鏡では道長の魅力を存分に伝えていますよ。

 

 

 

 

キ「大鏡」の現代語訳・品詞分解⑦(三船の才)

→道長はライバルの伊周を弓の競射で圧倒する

 

ある時、藤原伊周(道長の兄道隆の息子)は大勢の客を招待して弓の競射を主催しました。

ただ、そこに呼ばれてもいない道長が急に現れます。

そこでは道長と伊周との弓の競射対決が始まります。

最初は道長が勝ちましたが、道隆や周りの人が「もう2回勝負してくれ」と言ったので、道長はやむを得ずさらに勝負をします。

そして弓を射る際に、「道長の家から将来天皇や后が生まれるのであれば、この矢を当たれ」と言いながら放つと、なんと的の真ん中に命中しました。

それに恐れをなした伊周は的外れなところに矢を撃ってしまい大恥をかかされました。

 

「弓争ひ」の品詞分解・現代語訳「弓争ひ」のYouTube解説動画

 

たま吉
のちに道長は権力を逃げるようになるんだニャー

 

 

ク「大鏡」の現代語訳・品詞分解⑧(鶯宿梅)

→梅の木の持ち主はなんと紀貫之の娘であった

 

翁の一人である夏山繁樹は、「村上天皇にお仕えしていた時に、清涼殿の前にあった梅の木が枯れてしまったので代わりの木を探してこいと言われた。」と言いました。

そこで繁樹は西の京のとある一軒家にある梅の木を見つけたので、それを掘り取りました。

その様子を見ていた家の主人が、この手紙をつけてその梅を持って行ってくれと言います。

内裏に戻り梅を天皇に見せると、手紙の存在に気づきます。

そして手紙を読むとそこには、「梅の木を持っていかれると毎年来る鶯はどこに止まったらいいのか私には答えることができません。」という内容でした。

こんな風流のある歌を書いたのは誰かと気になったところ、それを書いたのはなんと紀貫之の娘でした。

紀貫之といえば歌の名人で、天皇の父である醍醐天皇に仕えた人でもあります。

その娘から風流がないことを指摘された天皇は自分の過ちに気づいたのでした。

 

「鶯宿梅」の品詞分解・現代語訳「鶯宿梅」のYouTube解説動画

 

モモ先生
村上天皇も風雅に通じた人でしたよ。

 

 

 

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